箱入り娘

春、シロは小さな庭の柔らかな茂みの中で沢山の兄弟たちと共に生まれた。大きな人間たちはシロたちを「エキチュウ」と呼び放っておいてくれたので、小さな人間たちに見つかって棒で突かれる他は、彼女たちは害されることがなかった。

三日月が満月に、満月が再びその身を削る頃、兄弟たちは銘々の道を定めて巣立って行った。ある者は朝露を集めて一儲けするため、また、ある者は菜の花畑を目指して旅立って行った。

兄弟たちが外へ外へと飛び出す中、シロは茂みの向こうの青い家が気になっていた。時たま、ポロンポロンと聞こえる音に彼女は心を奪われていたのだった。ポロンポロンの調べを聞きながら「なんの音かしら。どんな生き物の声かしら。」と物思いに耽る間、シロはとても幸せだった。

シロが物思いに耽る間にも、兄弟たちは次々と飛び立っていった。ある者は鏡に惹かれて街に向かい、また、ある者は山のつつじを目指して旅立って行った。そして、とうとう、小さな庭はシロだけになった。それでもシロは、ポロンポロンの調べを聞きながら「私って箱庭入り娘ね。」と物思いに耽っていた。

 

初夏、燕がシロを目がけて飛び降りて来た。シロはびっくり驚いて足を滑らせてしまった。茂みの中に落ちたシロを燕は見失い、名残り惜しそうに小さな庭を旋回して、空へ戻っていった。シロは茂みの中で、早鐘のように波打つ自分の鼓動を聞いていた。「あぁ、怖かった、怖かった。」「あぁ、生きてる、私、生きている。」震えながらシロは呟いた。

次の日の朝、シロは旅立つことにした。彼女は、青い家にポロンポロンの正体を突き止めに行くことにしたのだ。シロはポロンポロンの音に向かって、小さく開いた窓の隙間から家の中に飛び込んだ。そこには、見たこともないほど大きな黒い塊があり、周りを人間たちが囲んでいた。シロは小さな人間たちに見つからぬよう、本棚の影に身を潜めて様子を伺うことにした。

ポロンポロン、シロの心を捕らえたその音は黒い塊の中から聞こえている。ポロンポロン、人間が白い歯に触ると音が広がる。シロは逸る気持ちを押さえて、人間たちが居なくなるのをじっと待った。

 

黒い塊から人間たちが離れた。シロは、本棚の影の中から柔らかな光の中に飛び出した。そっと黒い塊に近づき、そっと白い歯の上に降りた。なんの音もしなかった。シロが首をひねっていると羽音が近づいて止まった。羽音の主は、シロから少し離れた黒い歯の上に止まっていた。

「はじめまして、こんにちは。あなたはだあれ。」シロの言葉に返事は無かったけれど、赤い瞳はシロへ向けられた。「私、シロ。今日初めてここに来たの。それでね、歯の上に乗っても、ポロンポロンの音がしないのだけれど、あなた、どうしてか分かる?」シロの言葉に返事は無かったけれど、赤い瞳はシロへ向けられたままだった。「きこえていないの?」シロが近づこうとすると、赤い瞳はようやく答えた。

「音を奏でるには、僕らの命は軽すぎる。」それだけ言うと赤い瞳は、羽音を立てて小さな部屋を旋回し、どこかへ消えてしまった。シロは歯の上に固まって、小さく乱れる自分の鼓動を聞いていた。「また会えるかしら。」呟いてから、シロは自分の言葉に驚いた。「私、どうしたのかしら。」

 

それから、二人は黒い塊の歯の上で三日続けて顔を合わせた。会うたびにシロは沢山の言葉を赤い瞳へ投げかけた。赤い瞳の返事はいつも短かったけれど、シロの鼓動はいつも小さく乱れた。

四度目の別れ際、シロは赤い瞳に言った。「明日も明後日もその次の日も、あなたと会いたいのだけれど。」シロの言葉に返事は無かったけれど、彼の赤い瞳は少し細くなった。

「けれども、僕らの命は違いすぎる。」それだけ言うと赤い瞳は目を見開いて、羽音を立てて小さな部屋を旋回しながら、またどこかへ消えてしまった。

シロは歯の上で固まって、小さく乱れる自分の鼓動を聞いていた。「どうしてかしら。」シロは自分の気持ちに驚いた。「どうしてか分からないけれど、分かってしまうのはどうしてかしら。」

 

五日目から、シロは歯の上に姿を見せなくなった。赤い瞳は、気になんかしていないと呟いて、そして、黒い歯の上で多くの時間を過ごした。

それから三日経っても、シロは姿を見せなかった。赤い瞳はいつもの輪舞をするために、黒い歯の上から飛び立った。小さな部屋の中を旋回していると、昨日までは無かった眩しい光が目に飛び込んだ。それは床の隅に転がる小さな木箱だった。

 

小さな木箱の縁に赤い瞳は止まった。「ガラスに光が反射したのか。」赤い瞳はガラス越しに木箱をのぞき込んだ。木箱の底にはシロがいた。彼女は首の付け根に銀色のブローチをしていた。

「シロ?」赤い瞳は初めて彼女を呼んだ。けれど、シロの返事はなかった。それでも赤い瞳は、シロを呼び続けた。シロの機嫌が良くなるように、自分がいつも言葉足らずなことを謝ってみたり、彼女の見た目を褒めてみたりした。そうして、赤い瞳の声が枯れる頃、彼はシロのゆったりとした返事を聞いた気がした。

 

「あらやだ、ハエが死んでる。」小さな標本箱の上で固まっているハエを母親は見つけた。そして、ハエをチリ紙で包んでゴミ箱に捨てた。小さな標本箱は、息子が父親にせがんで作らせたものだ。「見ないと思ったらこんなところにあったのね。」母親は木箱に薄く積もった埃を払い、ピアノの上に置いた。「案外、変色しないものなのね。」木箱の中に納まる白い星のテントウムシを見て母親は呟いた。