男の見た夢_7

 常緑樹の林の作る涼やかな影に身を任せ、体の隅々まで水が行き届く心地よさに、作造は酔っていた。そのせいで、彼に近づいて来る気配に気づくのが一寸遅れた。気配に気づき振り返った時に目が合った。気配の正体は鬼だった。作造は、清水を汲みに来た鬼に出くわした。「しまった」作造は内心で舌打ちしたが、表情は冷静なままである。鬼は左手で桶を差し出しながら清水に近づいて来る。作造はそれを左に大きく飛んで避けた。鬼から目を離さぬように、足元の気配を探りながら後ろへ下がった。
 鬼は作造の様子を見ながら水を汲んでいた。桶が水で満ちたのだろう、鬼は桶を清水の湧く岩肌に置いた。すると、鬼は作造を目がけて走ってきた。それを見るのと同時に、作造は踵を返して林の中を走った。古戦場でのかっぱらいで何度も同業者を躱してきたので、彼は脚には自信があった。林の中をジグザグと縫うように走っていく。木の根や藪を上手くよけながらの走りはしなやかではあったが、速くはなかった。「何も食べていないと、こんなにも脚は動かないのか。」作造は内心焦った。鬼の足音が大きくなり、着々と彼との距離を縮めていることが伝わってくる。
 作造が大きな藪を躱すため、体を右に大きく旋回させた時、彼の腰を鬼が掴んだ。作造は鬼の手を逃れようと体を捻った。けれど、鬼の大きな手の平は作造の腰をしっかりと掴んだままだった。鬼はそのまま作造を右肩に担ぐと清水の湧いていた場所に戻った。作造を右肩に担ぎ上げた鬼は、岩肌に置いていた桶を左に持ち、彼が来た方へ歩き出した。
 肩に担がれながら作造は心中で、鬼の剛力に驚嘆するとともに、自分の悪運が尽きたのならばこの世から退散するしかあるまい、と考えていた。「鬼の剛力に捕まっているこの身は、多少抵抗しても放されることはあるまい。如何せん、鬼だ。鬼は、この身を骨まで喰らうのだろうか。その肉の柔らかい女や子どもならいざ知らず、男の俺を、鬼はどうする気なのだ。」「穴でも掘らされるのだろうか、河原で石を積み上げさせられるのだろうか。困ったな、コツコツ働くのはもう勘弁して欲しいと思っていたところなのだが。どうしたものかな。」作造があれこれと思案している間に、鬼は林の奥にあるだろう住処へと山道をずんずん進んでいく。
 鬼が林の中の獣道を歩いている間、彼の背中に担がれている作造は、遠方に見える人影に気付いた。その人影は鬼に気付かれないよう慎重に、鬼の後を付けているようだった。「あれではだめだろう。気配はおろか、足音さえも消せていない。」作造はその人影に心中で毒づいた。鬼は、一瞬、作造の腰に回している手に力を込めた。その所作から、鬼も後を付けられていることに気が付いたのが分かった。それでも、鬼は獣道を進んでいる。住処へ戻ろうとしているようだった。作造は鬼の心中をこう読んだ。「この鬼は追跡者を叩きのめす自信があるということか。」林の木が風に逆らって一寸だけ揺れ、作造はもう一つの気配に気づいた。気配丸出しの追跡者、その更に後方にもう一人後を追ってくるものがいる。あれは相当な手練れだな、作造は直感的にそう思った。
 鬼に気付かれていることも気付かない、間の抜けた追跡者は近距離から弓を引いた。
その距離から弓を引けば、音と気配で誰でも気がつく、そんな近さだった。無論、鬼もそれに気づいて、矢を易々と避けた。続いて、作造を肩から下ろし木の陰に置き、自身は別の木を盾に後方の様子を伺っている。なかなか矢が飛んでこないことを、訝しんだ鬼と作造は追跡者をよく観察しようと木の幹から顔を出した。木から下りて草の上に座り込んだ追跡者の顔を見ることができた。追跡者は、反り返った弦で頬を強かに打ったのだろう。頬がに赤い本線が入り、痛さに耐えかねた追跡者は弓を下ろしていた。鬼も作造もあまりの幼稚さに、しばらく呆然と追跡者を見つめてしまった。
 はたと、鬼は我に返り、腰に下げていた鉈を追跡者に向かって投げた。緩やかな放物線を描き、可愛げのない速さで鉈は追跡者に向かって飛んでいく。鉈に気を取られた追跡者の動揺を、鬼は見逃がさなかった。すばやく追跡者との距離を詰めると、彼を倒して上にのしかかり、息の根を止めにかかった。追跡者の顔がみるみる内に赤くなっていく。鬼の肩が盛り上がっている。夢中で力を込めているようだった。
 鬼は追跡者を締め上げることに夢中で周囲への警戒が疎かになった。その隙を縫って、甲高い音と共に矢が飛んできた。矢は鬼の盛り上がった肩に刺さった。あまりの痛みに鬼は、追跡者の首を絞めていた手を離した。追跡者は身じろぎをして鬼のから身を抜き出した。すばやく弓を引き、鬼のこめかみに向かって矢を放った。至近距離から、眉間に矢を受けた鬼は絶命し、膝から力が抜けるように鬼は前方に倒れた。