椿の茂みの陰にて

 小太郎は椿の茂み傍で隠れるように座っていた。実際、彼はその身を隠していた。椿の茂みの向こうには、青い屋根の一軒家があり、そこは彼の想い人が住んでいる。彼は彼女に見つからないように、体を丸めて茂みの中にいた。先日、小太郎は彼女に思いを伝えたが、彼女からは彼の想いに応えられないという返事を受け取った。それでも彼の気持ちが萎むことはなかった。一目でよいから彼女を見たいという気持ちを抑えることができず、彼は彼女の家まで来てしまったのだ。彼は自分の行いが彼女にとっては受け入れ難いものであることに気付いている。けれど、高鳴る胸の子鼓動を押えきれないように、引き返すこともまた彼にとっては出来かねることだった。彼女の白磁のような、整った横顔をどうしても見たかったのだ。
 小太郎は木こりで、彼の祖父と山小屋で暮らしている。普段の彼は山の中を巡り、下草を刈り、枝を打っている。たまに材木商から頼まれれば、木を切り倒し、それを馬にひかせて、商人の住まう山と町の境にある森の傍まで出かけていく。彼女とは、その道すがらであった。彼女は畑の中で麦を踏んでいた。着物の裾のやや短く、帽子を目深に被って、下を向いて麦を踏む彼女。その姿を一目見た小太郎は、馬の脚を止めて彼女に見入った。「なんと美しい女性だろう。」毎日の生活で顔を会わせるのが年老いた祖父しかいない小太郎にとって、すべての女性は美しく見える。そんな小太郎にとって、整った顔立ちをした彼女は神々しいまでに美しく見えた。退屈した馬がいななくまで、時が止まったように彼は畑仕事をこなす彼女を見つめていた。
 馬の声に促されて現実に引き戻された小太郎は、材木商へと急いだ。木を引き渡すと、挨拶もそこそこに、彼は来た道を急いで戻った。帰り道で彼女の姿をもう一度見たいと思ったからだ。彼女を見た畑に近づいて来た。けれど、彼の期待に反して、麦畑に彼女の姿は無かった。もう少し見ていたかった、彼は丹念に彼女の姿を思い返しながら家路についた。
 粗末な山小屋の中で祖父が夕食の支度をしてくれていた。山で獲れたウサギの入った汁の鍋をじっと見つめる祖父に小太郎は話しかけた。「材木商に向かう道の途中、麦畑で美しい女性を見た」「どこの誰だか知っているか」祖父は鍋から孫へと視線を動かし、答えた。「村の娘だろう。けれど、美しい、というだけでは誰かは分からない」祖父の返答に納得しつつ、小太郎は溜息を洩らした。もう一度、娘の姿が見たかった。