椿の茂みの陰にて2

 その晩、小太郎は丹念に彼女の姿を思い返した。繰り返し思い返す内に麦畑にいた女は、小太郎の頭の中で天女と見紛うほど美しい女性へと昇華されていった。小太郎は天女を嫁に貰い、毎日その姿を愛でる夢を幾晩も見るようになった。幾度も同じ夢を見るうちに、それを正夢だと信じるようになった。小太郎は、あの天女のような娘を嫁にもらうのだと信じて疑わなくなった。
 小太郎は夢の話を幾度も祖父に語った。最初の内祖父は、青年らしい夢の話を黙って聞いていた。しかし、幾度も同じ話を聞かされる間に、小太郎の純粋故の独善さに、不安を覚えるようになった。そのような折、近くの村に住む者から小太郎と年恰好の近い娘との縁談を持ちかけられた。小太郎の行先を案じていた祖父は、早速、彼に話をした。けれど、小太郎は良い顔をしない。そこで、祖父は諭すように言った。嫁に貰う女に大事なことは見た目の良し悪しではない。体が丈夫で慎ましいことが大切なんだ。祖父は、飯時に小太郎と顔を合わせる度に、繰り返し、繰り返し言い聞かせた。けれど、小太郎は天女を嫁に貰う夢を信じて疑わない。小太郎と折り合いをつけることも、祖父がその主張を押し通すこともできぬまま、いたずらに時は過ぎ、縁談の話は流れてしまった。
 それからしばらくして、小太郎に山から材木商へと木材を運ぶ機会が巡ってきた。道すがら、天女を見つけた麦畑をじいっと見つめて進んだ。小太郎は、再び天女を見つけた。馬車を止め、小太郎は黄金色の麦畑中を彼女に向かって駆け寄った。怪訝な顔をした天女に向かって小太郎は、自分の想いのまま求婚した。天女は、形のよい唇をゆっくりと動かし、はっきりと小太郎の求婚を拒絶した。諦めきれない小太郎は、天女に詰め寄った。天女は後ずさりすると、踵を返して、走りだした。
 走り去っていく天女の姿を、呆然と見送った小太郎だったが、気を取り直して彼女の後を追ってあぜ道を走った。天女が畑の傍のあばら家に駆け込むのが見えた。その家から天女と入れ違いに年老いた男が一人出て来た。咄嗟に、小太郎は椿の茂みに隠れた。
 小太郎は思案した。どうして天女が自分の元から走り去ったのかを。何か手順を間違ってしまったことに思い至るけれど、これからどうしたらいいのか皆目見当が付かなかった。さて、どうしたものか、椿の陰で小太郎は悩んだ。遠くから木材を乗せたままままの馬車のだろうか、馬のいななきが聞こえて来た。晴天の空を見上げた小太郎の胸に、天女は嫁に来ないんだな、との答えが浮かび上がる。とめどなく溢れて来る涙をぬぐいもせず、椿の茂みから小太郎は足早に立ち去った。
 その年の冬、小太郎は嫁をもらった。

椿の茂みの陰にて

 小太郎は椿の茂み傍で隠れるように座っていた。実際、彼はその身を隠していた。椿の茂みの向こうには、青い屋根の一軒家があり、そこは彼の想い人が住んでいる。彼は彼女に見つからないように、体を丸めて茂みの中にいた。先日、小太郎は彼女に思いを伝えたが、彼女からは彼の想いに応えられないという返事を受け取った。それでも彼の気持ちが萎むことはなかった。一目でよいから彼女を見たいという気持ちを抑えることができず、彼は彼女の家まで来てしまったのだ。彼は自分の行いが彼女にとっては受け入れ難いものであることに気付いている。けれど、高鳴る胸の子鼓動を押えきれないように、引き返すこともまた彼にとっては出来かねることだった。彼女の白磁のような、整った横顔をどうしても見たかったのだ。
 小太郎は木こりで、彼の祖父と山小屋で暮らしている。普段の彼は山の中を巡り、下草を刈り、枝を打っている。たまに材木商から頼まれれば、木を切り倒し、それを馬にひかせて、商人の住まう山と町の境にある森の傍まで出かけていく。彼女とは、その道すがらであった。彼女は畑の中で麦を踏んでいた。着物の裾のやや短く、帽子を目深に被って、下を向いて麦を踏む彼女。その姿を一目見た小太郎は、馬の脚を止めて彼女に見入った。「なんと美しい女性だろう。」毎日の生活で顔を会わせるのが年老いた祖父しかいない小太郎にとって、すべての女性は美しく見える。そんな小太郎にとって、整った顔立ちをした彼女は神々しいまでに美しく見えた。退屈した馬がいななくまで、時が止まったように彼は畑仕事をこなす彼女を見つめていた。
 馬の声に促されて現実に引き戻された小太郎は、材木商へと急いだ。木を引き渡すと、挨拶もそこそこに、彼は来た道を急いで戻った。帰り道で彼女の姿をもう一度見たいと思ったからだ。彼女を見た畑に近づいて来た。けれど、彼の期待に反して、麦畑に彼女の姿は無かった。もう少し見ていたかった、彼は丹念に彼女の姿を思い返しながら家路についた。
 粗末な山小屋の中で祖父が夕食の支度をしてくれていた。山で獲れたウサギの入った汁の鍋をじっと見つめる祖父に小太郎は話しかけた。「材木商に向かう道の途中、麦畑で美しい女性を見た」「どこの誰だか知っているか」祖父は鍋から孫へと視線を動かし、答えた。「村の娘だろう。けれど、美しい、というだけでは誰かは分からない」祖父の返答に納得しつつ、小太郎は溜息を洩らした。もう一度、娘の姿が見たかった。

島流し

罪人は皆酒を飲ませ、眠らせて島流し
嫌な思い出はすべて水に流してしまいましょう
波にさらってもらいましょう
引き潮に合わせて、舟に罪人を乗せたら
三人の男が舟を押します
合図に合わせて三人で押します
誰が押したか分からない様に三人で押します
静まり返った海の中、罪人を乗せた船は沖へと消えていく
舟が跡形もなく見えなくなるまで見送って
三人はそれぞれ引き上げる
黙って家路を急ぐ間に
「押したのは俺じゃない」と三者三様に思いめぐらせ
そして、三人とも、家につく頃には忘れている
波の音しか聞こえない海
酒に酔った罪人の大きないびき声
ぎしりと音を立てながら舟は進む
力を込めて握った舟の縁の感触
全て忘れて日常に戻る
罪人がいたこと、彼らの罪深い行いも

末っ子ねずみ、末吉の話 2

 とある田舎に農家を営む家族の平屋の一軒家があり、そこには、ねずみの一家が暮らしておりました。一家といいましても、お父さんねずみはあまり家に居ませんでした。お父さんねずみには放浪癖があり「山が俺を呼んでいる」と言って旅に出たり、「海が俺のために泣いている」と言って旅立ったりするのです。一度旅に出ると二、三か月は留守にしますので、ほとんど家を空けておりました。なので、この一軒家では、お母さんねずみとその十人の子どもたちで暮らしていました。
 このお母さんねずみは、放浪癖のある夫を初めから頼りにはせず、一人で十匹の子を産み育てた、たいそう肝っ玉のでっかいお母さんでした。お父さんねずみの稼ぎがなく生活が苦しい時でも、しゃんと背筋を伸ばして前を向いておりました。また、農家の一家に飼われている猫に見つかってしまったときもありました。その時には、子どもたちが銘々逃げおおせるまでその尻尾で猫の注意を自らに引き続けておりました。肝っ玉の据わったお母さんねずみですが、その苦労の跡は隠しきれません。十一匹分の食料を背に負って一日に何往復もしていましたから、お母さんねずみの背中の毛は抜け落ちて大きな禿ができていました。また、着ている物に臭いが付くと、猫に見つかりやすくなってしまいます。そこでお母さんねずみは、毎日十一匹分の洗濯物を洗っていました。ですから、お母さんねずみの手はあかぎれだらけでいつも真っ赤でした。
 十人の兄弟の内訳は、女の子が六人、男の子が四人です。お母さんねずみは、五匹ずつ子どもを産みました。放浪癖のあるお父さんねずみでしたが、妻の出産の時には必ず家に居て、食糧を調達したり、洗濯をしたりして、お母さんねずみを助けておりました。また、子どもたちの名づけもしておりました。上の五匹の兄弟は、幸子、福子、明子、大吉、中吉と名付けました。下の五匹の兄弟は、和子、加子、亜子、小吉、末吉としました。放浪癖とは一種の病気のようなものです。出産と育児でお母さんねずみが巣から動けない間は家におりますが、子どもたちが大きくなると、ある日突然、何かに呼ばれてふらりと旅に出てしまうのでした。
 ふらりといなくなるお父さんねずみのことを、上の五人の兄弟はよく思っていませんでした。それもそのはずです。お母さんねずみが二回目の出産をした頃には、彼らは十分に大きくなっていましたから。上の五人の兄弟は、お父さんねずみが家に居ることの頼もしさも知っています。そして、それ以上に、突然旅に出てしまって家から居なくなる寂しさも知っています。お父さんねずみが家にいない寂しさは、年月とお父さんねずみの旅の回数が重なる毎に、だんだんと憎しみにも似た激しい感情に変わっていきました。上の兄弟五人は、一人前のねずみに成長する中で、その激情と折り合いをつけていかねばなりませんでした。
 反対に、下の五人の兄弟は、お父さんねずみにあまり関心がありませんでした。それもそのはずです。彼らが物心つく頃には、お父さんは旅ばかりの毎日で家に居ることの方が稀でしたから。肝っ玉の据わったお母さんねずみと、それぞれが頼もしく成長した上の五人の兄弟が、いつでも下の五人の兄弟の世話を焼き、守ってくれました。なので、下の五人はお父さんねずみのいる頼もしさも、お父さんねずみが旅に出てしまう寂しさも分からないままに、一人前のねずみへと成長していったのです。
 お母さんねずみは毎日よく働きました。ただ、お母さんねずみは働き過ぎたのでしょう、ある日倒れてしまいました。上の五人の兄弟は、一生懸命の看病をしました。大吉と幸子の二人は、病に行くという草や木の実を求めて、慣れない森の中へ行きました。残った三人は、代わる代わるお母さんねずみに水を飲ませたり、額の布を冷たいものに変えたりしました。下の五人の兄弟は、上の五人の兄弟の代わりに、食糧を調達し、洗濯をしました。お母さんねずみが倒れてから十日後、お父さんねずみが久々に旅から帰って来ました。それから、お父さんねずみはお母さんねずみの傍を一時も離れず、手を握って励まし続けました。けれど、看病と励ましの甲斐なく、お母さんねずみは空へと旅立っていきました。お母さんねずみが空へ昇ってから三日後、お父さんねずみはお母さんねずみの遺骨を持って旅に出ました。「あいつが好きだった花を、世界中の美しい花々を見せてやるんだ。」と兄弟たちに言い残して。

末っ子ねずみ、末吉の話 1

 ねずみと言いましても、近頃ではいろいろな者がおります。まず、住むところが様々です。森の中、街の中、そして人の家の中等々。彼らがどのように暮らしているのか、一つ一つの場所でどのように暮らしているのか見ていきましょう。
 昨今の技術革新は目を見張るものがあります。ロボット掃除機や自動運転の車、何でも答えてくれる携帯電話の機能等、生活を便利にした技術は上げればきりがありません。人間の目に入ることこそありませんが、ねずみの世の中でも革新はなされております。特に、街で暮らすねずみ達は、人間と共に進歩を遂げてきました。地面を掘り返して下水道が整備されれば、そそくさとそちらに引越し、街灯が明々と灯るようになれば、影を求めて建物の中へと忍び込みます。生活の変化に合わせて、様々な職業が生まれました。都会ではなかなか集め難い巣作りの材料を集めてくる便利屋、路地の抜け道や建物の裏道を教える情報屋などが新しく生業を始めました。
 また、毎日、燃えるゴミが出る繁華街では、ねずみの種類ごとにきちんと組合を作っており、生ごみは組合の管理で均等に配分されています。以前は、ねずみ同士で血で血を洗うような壮絶な戦いを繰り返しておりました。しかし、ねずみ達が争いに気を取られている間に、カラスが生ごみを持ち去ってしまうようになったのです。そこで、ねずみ達は争いを止め、話し合いによって生ごみの分配量を決めました。分配量が決まっていますから、カラスに横取りする間を与えずに、ねずみ達は生ごみを手に入れることができるようになりました。
 次に、森で暮らすねずみの様子を見ていきましょう。森の中で暮らす野ねずみさんなんて、かわいらしいと呑気にお思いでしょう。しかし、もともと森で暮らしていた地元ねずみと、都会の街で暮らしていたけれど引っ越してきた移住ねずみとの間には大きな溝があります。ハヤブサやフクロウなどの猛禽類に見つからないように、地面の下にねずみ達が移動で使うトンネルを地元ねずみたちは掘っています。そして、毎週日曜日には、皆で集まってトンネル清掃活動をしています。トンネルの中に溜まった落ち葉や小石を取り除いて、朽ちた落ち葉で滑ったり、小石につまづいたりすることがないよう、トンネルの中をきれいに掃除するのです。
 移住ねずみ達もこのトンネルを使うようになったのですが、毎週日曜日のトンネル清掃活動には我関せずといった風情で参加をしません。地元ねずみ達は、最初は優しく、移住ねずみ達に声を掛けました。「皆さんも清掃活動に参加して下さいね」と。しかし、掃除をするという習慣のない移住ねずみたちは、なかなか参加しませんでした。すると、段々と地元ねずみ達の語気も強まります。それでも、移住ねずみ達は掃除に参加しません。そして、とうとう、トンネルの出入り口に小さな立て看板が立ちました。そこには、真っ赤な文字でこう書かれていました。「清掃活動に参加していないねずみの方はトンネルの使用をお控えください」これを見た移住ねずみ達は猛反発。そういうことなら、自分たちで新しくトンネルを作ろうと言い出します。それから、地元ねずみと移住ねずみは、年がら年中、小さな言い争いをし続けています。
 さて、人の家の中に住むねずみの話です。人の家に住むねずみは、昔からおりましたので、細かい取決めが定まっております。生業は、
柱に彫刻をする芸術家か、人の隙をついて食べ物を集める盗人の二つしかございません。また、生業を働く人の家は、ねずみの一家ごとに一軒と決まっております。引越しをするときは、引越し先の先住ねずみとよくよく話し合いをするか、ねずみのいない家を探すかのどちらかをします。

小吉の話

ねずみといいましても、近頃は色々なものがおります。
まず、住むところが様々です。森の中、街の中、そして人の家の中。
また、その生業も様々です。巣作りの材料を集める便利屋、抜け道、裏道を教える情報屋、そして、柱に彫刻をする芸術家。
このように色々おります、ねずみのうち、今日は、人の家の中に住む一匹のお話をご用意して参りました。
このねずみ、20人兄弟の末息子で、名を末吉と申します。
末吉は、長男の大吉と三男の中吉とともに、人の隙をついて食べ物を集めることを生業としておりました。
この三匹の仕事はきっちり役割分担ができております。
まず、大吉は食器棚の上から人や猫どもを見張り、その様子を尻尾の形を変えて弟たちに伝えます。
次に、中吉は、兄の合図を頼りに真一文字に駆けてゆき、食べ物を咥えて巣穴の入り口に戻ります。
そして、末吉の役目は、食べ物に気を取られている小吉のため、巣穴までの道を守ることでした。
中吉はたいてい、野菜や魚の端を咥えて参りますが、ごくごくまれに、果実をかっぱらって戻ることがありました。
ある年の重陽の晩、中吉は、ザクロをかっぱらって戻って参りました。大吉は弟からその実を受け取ると、きっちり3等分し、弟たちに渡しました。
「今日は中吉のおかげで初物にありつけた。」
「2人あっての俺だからさ。」
ひとしきりお互いの労をねぎらい合った後、三匹は銘々の巣穴へ戻っていきました。

さて、自分の巣穴に戻った末吉。彼は一人もんもんとしておりました。去り際の兄の言葉が、心にちくりと刺さったからです。
「あぁ、死んだ母さんにも食べさせてやりたかったなぁ。」
末吉らの母は、放浪癖のある夫を頼らず、一人で20匹の子を産み育てた、たいそう肝っ玉のでっかい ねずみで、どんなときも、しゃんと背筋を伸ばしておりました。けれど、苦労の跡は隠しきれず、背中の毛は抜け落ちて大きな禿ができ、その手はあかぎれだらけでいつも真っ赤でした。
末吉は、そんな母の姿と兄の言葉を思い返す内に、ザクロを自分が食べてもよいのか、分からなくなっておりました。
しばらく頭を抱えておりましたが、思い悩むことに疲れた末吉は、ざくろを巣穴の奥に放り出して、その日は眠ることにしました。
それから末吉は、果実を分配された折には、口をつけずに巣穴の奥に放り込んでおくようになったのでございます。

末吉が果実を放っておくようになってから、3度目の満月が昇ったころ、大吉はあることに気づきました。「おい、末吉、お前から、なんだか妙な臭いがするぞ。」
自分と目を合わさず生返事をした末吉に、大吉はきっぱりと言いました。
「お前、きちんと巣穴をそうじして、毛づくろいを欠かさずしているのか。俺たちのような仕事は、人や猫に見つかったら、おしまいなんだぞ。その時、始末されるのは、お前だけじゃない。もうお前は素人じゃないんだ。ここらできっちりと、かっぱらい屋として生きてくんだと腹を決めろ。」
その言葉にも、末吉はただ黙ってうなずくばかりでした。

そこから、4度目の三日月が昇った頃、今度は中吉が言いました。
「おい、末吉、ちょっと待ちな、そこに座ってよくお聞き。平生のお前の仕事ぶりには、俺も兄さんもたいそう感謝してるよ。だから、な、鼻の効くやつらに見つからないようにさ、きっちりとした身なりをしてれ。それさえ適えば、俺も兄さんも、お前に言うことはもう何もないよ。」
その言葉にも、末吉はただ黙ってうなずくばかりでした。

そこからさらに、6度目の新月の晩、中吉から話を聞きつけて心配した長女の吉子姉さんが、嫁ぎ先の森から訪ねて参りました。
「ねぇ、末吉よ、最後までちゃんときいてちょうだいよ。お前は母さんを早くに亡くしたから、一人でなんでもしょい込んじまうね。でもね、お前は今一匹で生きているのかい。そうじゃ、ないだろう。何か困ったことがあるのなら、ほら、姉さんに、はなしてごらん。」
その言葉にも、末吉はただ黙ってうなずくばかりでした。

それからしばらくした、下弦の月の晩のことでした。とうとう、末吉は仕事の最中に猫に見つかってしまいました。猫の鋭い爪を避けきれず、末吉は背中に大きな傷を負いました。
その様を見ていた大吉は、棚の上から大皿を蹴落としました。がっちゃん、猫が大きな音に驚いてその動きを止めている隙に、大吉と中吉は手近な窓から家の外へ、末吉は自分の巣穴へ逃げていきました。

命からがら、一人巣穴に戻った末吉。布団代わりの板きれの上に倒れこみ、ぴくりともしませんでした。
傷口の熱さにうなされながら末吉は、「もうどうにでもなれ」と静かに目を閉じました。

しばらくすると、巣穴の奥で腐っていた果実の汁が、じわりじわりと末吉に近づいて参りました。そのまま、するすると板の下に潜り込んだ果実の汁。板ごと末吉を巣穴の外へ運び出し、雨どいを伝って、庭へと押し出しました。庭へと出ても板の上の末吉はぴくりともしません。

そんな末吉の姿を哀れに思ったのか、冷たい夜風は背中の傷を冷やしてやり、月は雲の中に身を隠し、猫の夜目もきかないほどの闇をつくってやりました。そして、果実の汁を吸った草は背を伸ばし、末吉の顔に夜露を1滴、かけてやりました。

「俺はいったいどうしたいのだろう。」
夜露で頭が冷えた末吉は自分に問いかけました。繰り返し、繰り返し夜通し問い続けました。

そして、朝日が東の雲を紫に桃に染め上げるころ、末吉の頭にぽっかりと答えが浮かびました。
「俺はザクロが食べたい。」
浮かんだ小さな答えをかみしめた末吉。涙がぽろぽろとこぼれました。泣きながら末吉は自分の心がしぃんと静かになっていくのをじっと感じていました。

涙をぬぐった末吉は板の上から身を起こしました。
何かあったときのために、と兄から教えられていた庭の木に向かって、這うように、一歩一歩進み始めました。
「俺はざくろが食べたい。」
繰り返し、繰り返し、心の中で唱えながら進んでおりました。

庭の木のうろの中にひそんでいた大吉と中吉。二匹はじりじりと近づいてくる弟を見つけました。
痛みをこらえて末吉は木の幹に爪を立てました。その姿を見た二匹は、末吉にむかって腕をめいっぱい伸ばします。
木のうろの中に引き上げられた末吉は、二匹の兄を見据えて、こう、申しました。
「俺はざくろが食べたい。」
「ばか、礼を言うのが先だ。」大吉はいつものように叱り、中吉はニヤニヤ笑っておりました。
東の雲を染め上げた陽光が大気の水の粒に反射して、空気がきらめき始めました。
「起きたら、新しい家を探すぞ。」そういうと大吉は眠ってしまいました。「ああ。」短く返して中吉も眠ってしまいました。
末吉は、背中がうろの壁に当たらないよう横になり目を閉じました。
深い眠りに落ちる前、末吉は、「俺はザクロを食べるのだ。」もう一度心の中で言いました。

背中の痛みで、末吉が目を覚ますと、そこは果実の汁に運び出されたはずのもといた巣穴でした。
末吉は身をよじり、巣穴の奥で腐りかけているザクロに腕を伸ばしました。
爪の先にかかったザクロを引き寄せて、末吉は一口齧りました。
「俺はザクロを食べるのだ。」もう一度心の中で言いました。


その時、末吉の食べたザクロの味は、私どもには知る由もございません。

ここまで、聞いて頂きましたのは、意地っ張りで一風変わったねずみのお話しでございます。